300km/hオーバー劇場の反響がよかった(仲間内だけか?スミマセン)ので、また思い出シリーズです。
ときはレーサーレプリカ全盛時代、これでもかこれでもかと次から次へスパルタンなオートバイが世に送り出されていたころの話だ。
某二輪専門雑誌のテストライダー兼ライターをフリーで務めていた僕は、それこそ毎月仕事で筑波サーキットと谷田部テストコースを走りまくっていた。そう、世の中はレーサーレプリカのサーキットベストラップや最高速度、ゼロヨンといった動力性能に関心が集まっていた時代だったのだ。
〇〇250XXでついに200km/hオーバー!! とか、〇〇400RRは筑波ラップ1分4秒台をマーク!! とか、オーバー1000ccで史上初のゼロヨン10秒台!! なんていう景気のいいタイトルの特集で二輪雑誌は売れに売れていた。性能がよいと雑誌で評価されたオートバイは市場で売れるから、その動力性能のヒートアップはすごかった。
まあ、今から思うとすべてがシンプルで非常にわかりやすい時代だった、とも言える。みんなオートバイに速さを求め、それに憧れていた時代だったんでしょうね。
谷田部テストコースで2サイクル250ccレプリカの比較テストが行われたときだ。AメーカーとBメーカーの広報マン2人が、その定地テスト(ゼロヨンや最高速、ブレーキテストなどのコースで行う動力テストを総じてこう呼ぶ)に立ち会っていた。この時代、雑誌社のテストに広報マンが立ち会うことはそう珍しいことではなかったのだ。
ほぼ半日かけたその定地テスト、下馬評では断然トップだろうと言われたAメーカー250が、なんと僅差でBメーカー250に最高速とゼロヨンとも敗北してしまうという結果になってしまった。
B広報マンは当然ニコニコ顔、対するA広報マンはさすがオトナ、「Aさん、やりますねー」と多少ひきつりながらの笑顔、である。
やれやれと、計測機械を仕舞ったりテスト車両を4トン平ボディトラックに載せたりの後片付けをしていたときだ。もう帰ったはずのA広報マンがクルマでコースに再び戻ってきた。
「あれ、なにか忘れ物ですか?」「いや、じつはお願いがあるんで戻ってきたんです。谷田部のコース代とか宿泊代とかウチがすべての経費を持ちますから、もう一度定地テストをやっていただけませんか?」
テスト結果を会社に報告したのだろう、メーカーとしてはこの結果を絶対に受け入れられない、という強い意識がうかがえた。そのときA広報マンの目はあの星飛馬が魔球を投げるときのようにメラメラと燃えていたのだ。
それから1週間も経たなかった日に、2回目の谷田部テストはまだ暗い早朝の4時から開始された。まず、3回から4回ほど行うゼロヨン発進加速テストは、ホントの僅差でA250が逆転勝利する結果となった。
続いて1周6kmのオーバルコースで行う最高速テスト、まずはB250が前回よりも好記録をマークした。今度はホントに顔がひきつるA広報マン。
さあ、いよいよA250の番だ。僕はストレートは当然、45度バンクもスロットル全開で周回を重ねた。3周目くらいだったか、突然東側バンクの手前でエンジン音が変わった(チリチリ音がする!)。僕は反射的にクラッチレバーを握った。握ったと同時くらいにチリチリ音が大きなガラガラ音に変化する! そう、エンジンが焼きついたのである。僕はレースで幾度かエンジン焼きつきを経験していたこともあり、幸いにもアクシデントは避けられた。
数分後、計測班の編集部員とA広報マンが、4輪で僕のところに慌てて駆けつけてきた。
「大丈夫ですか?」「うん、大丈夫、コケてないよ。エンジンが壊れちゃったみたい」
A広報マンを前にエンジンが焼きついたとストレートな表現はできないので、僕はこのトラブルをオブラードに包んだ表現で報告した。
「2回くらい計測できたでしょ? どう?」「B250よりホンの少し遅いですね」
すかさず横にいたA広報マンが言った。
「あの、僕が乗ってきたアルミパネルトラックにもう1台バイクがありますから、それで最高速テストを続けていただけませんか?」
なんとTカーつきだったのかい!?
トラックのパワーリフトからウィーンと、ワークスマシンよろしくそのTカーは現われて来たのでした。
いまから20年以上前のこと、もう時効ですよね。最高速の結果ですか?
ご想像にお任せします...;^^A
懐かしの当時の二輪専門誌です。なんか表紙文字にも勢いがあったなぁ。ちなみにこの表紙写真のライダーはもちろん僕です;^^A
うんうん ネット上でも「一部」バカウケ^^v
表紙タイトル?下のGAGワンメイク・・・・オモロー^^v
昭和レトロ?(笑) でも、時代は熱かった!
もっと、おせぇ〜て下さいましぃー orz
りさん>
同じ昭和の時代の生き証人?
でも…そうですよね、今の数倍熱かった気がするなぁ!